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聖書とは何か?

聖書、聖書とよく耳にはするが、一体何が書かれた書物なのかを知らない方は意外と多いのではないだろうか。八百万(やおよろず)の神を信ずる我らが日本人には、一神教を信仰する者の心情は理解し難いものがある。そのような環境に育った我々が聖書を手にしたことが無いのは当然と言えば当然の話である。

さて、皆さんは日頃「本」など読まれるだろうか。私はずっとスポーツをやっていたせいもあって、本を読み始めたのは大学生になってからだった。それまでに読んだ本のリストを書きだせ、と言われたら即座にタイプ打ちして提出できるほど、ほんの少ししか読んだことがなかった。まあ、せいぜいのところ漫画を読んだくらいか・・。そんな私が本の面白さに目覚め、猛烈に読み始めたのだった。そして聖書を読み始めたのも、ちょうど同じ頃だった。それまで、有名なストーリーなどは何となく知ってはいたが、きちんと聖書を読んだことは無かったのだ。

ところで世界で最も読まれている本、ベストセラーになっている本は一体何なのだろう?シェイクスピアか、ゲーテか、はたまたプラトンか。デカルトならどうか?いやいや、ちょっと待て。もしかしてハリーポッターの方が上をいっているなんてこったぁないような・・。まあ、色々考えてみてもどれもそれらしく感じてくるから困る(苦笑)。あまりじらしていても仕方がないので、答えといこう。それは「聖書」。それほど、人々を魅了してやまない書物なのだ。

では、一体何が書かれているのか。内容は様々だ。預言(予言ではない)、詩、手紙、歴史等々色々なものが混ざり合って構成されている。それらが書かれた「時代」も様々で、何百年というスパンが必要だ。聖書は大きく分けて「旧約」と「新約」の二つで構成されている。旧約は、イエスが生まれる以前の話。海を割ったと言われているモーゼや、彫刻のモデルとしても有名なダビデ王なども「旧約」の時代の人間だ。

そして、あらゆる預言者たちによって、イエス・キリストの誕生が預言された。それが成就した後、イエスの弟子たちによって書かれたのが「新約」だ。一般に、初めて聖書を読む場合は、新約から読むと良いと言われている。イエスのたとえ話や、印象的なストーリー、心に残る言葉が随所にちりばめられているからだ。

旧約はどちらかと言えば、歴史的な記述が多い。だから、歴史に興味のある方は、旧約から読んでみるのも良いだろう。「なるほど、イスラエルって昔から戦争してたんだ」とか色々な発見があると思う。

聖書は何も、何者かが想像だけで書いた小説のようなものではない。そのほとんどが、歴史的事実に基づいて書かれたいわば報告書のようなものと言える(もちろん、記者の信仰的な立場から書かれたものもある。聖書を読む際に重要なのは、それがどのような目的で書かれたのかを知ることである。例えば「創世記」はこの世の始まりについて書かれているが、そもそもその瞬間には人間はいなかった筈だ。ちなみに、「創世記」が書かれたのはバビロン捕囚の時代であったと言われている。紀元前6世紀ごろ)。だからこそ説得力があり、面白い。もちろん中には「奇跡」と言われるものも沢山出てくる。モーゼが海を割ったという記述を、科学的に解明する学者もいる。それでも「奇跡なんて、信じられない!」と言われる方は多いだろう。

しかし、我々は一体何をもって「奇跡」と言うのであろう。物が宙に浮いたら奇跡か。それとも一瞬にして地球の裏側に移動することが奇跡か。だが、そんなことでなくとも我々の周囲には実に「奇跡」が多いのではないだろうか。出産を考えてみたらどうか。精子と卵子が結合し、子供が形成される。その子供が母親の子宮内で十ヶ月の間成長し、やがて外の世界へ生まれ出る。これを「奇跡」と呼ばずして、一体何と呼ぼう。これほどの神秘が世の中に存在するだろうか。

人間て何だ?何で生きているんだ?こんな疑問を持たれたことはないだろうか。私はしょっちゅうそんな事を考えている。心臓の仕組みを知ったところで、人間が何故生きているのかを知ったことにはならないだろう。人間の体は元を正せば、肉の塊なのだから。私が不思議に思うのは、なぜ「人間」という「肉の塊」が動くのか、というその問題だ。別段、ロボットのような歯車があるわけでもない。バッテリーが入っているわけでもない。頭部に、ギガクラスのCPUが埋め込まれているわけでもない。でも、我々は生きているのだ!!何故?何故だ!?これを「奇跡」というのは、あまりにも滑稽な話だろうか。何だかよく分からないから、取りあえず「神様」が作ったことにしておきましょう、などという説明は御免だ。私には、まさに神が働かれて生きているとしか言いようがないし、またそれを感じ、信じているのだ。そう考えていくと、奇跡というものも案外すんなりと受け入れられるのではないだろうか。

聖書の中には、日頃道徳の問題として取り上げられるような話も沢山出てくる。例えば、モーゼの「十戒」というものをご存知だろうか。神がイスラエルの民に与えた十の戒めである。殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない・・・、等々の十の戒めが並ぶ。それらを実行していけば、日頃の生活がちっとはマシなものになりますよ、というような次元での話ではない。まさに、我々人間の尊厳や生き方に関わってくる問題だ。聖書とは、我々人間にとって都合の良いことばかりが書かれているのかというとそうでもない。我々にとって耳の痛い話、出来れば読み飛ばしたい箇所も沢山あるのだ。

聖書は、我々人間の弱さ、罪深さ、非情さ、残酷さ、等々をあますところなく伝える。あの栄華を極め、神に忠実に仕えたダビデ王に関する記述でさえも、彼が家来の妻を力づくで奪い取ったことなどがはっきりと記されている。普通「歴史」というものは、例え実際がそうであったとしても、綺麗に着飾って後世に残したいものだ。しかし、聖書はそれを許さない。なぜなら、それこそが人間の本質であり、それを欠いたら本当の意味で人間をえがくことにはならないからだ。

イエスの弟子達でさえも、イエスが十字架にかけられる為に捕えられた際には、自らも殺されることを恐れ、一目散に逃げ出している。「裏切り者のユダ」というフレーズは、どこかで聞いたことがあるだろうと思う。そのユダでさえ、その時までは実によくイエスに仕え、大勢の人々に伝道した善き弟子であった。ペテロという、これまた忠実な弟子もまた「あなたさまの為なら、この命でさえ惜しみません!」とまで言っていたのに、イエスが捕えられ、周りの人間に「おまえもあいつの仲間だろう」、と言われた時には「イエスなど知らん!」と三度も否定したのだった。

聖書は、そういう人間の弱い姿を何一つ隠すことなく書き記している。だからこそ、だからこそ信頼できるのだ。

聖書というものは、読めば読むほど、それが「本物」であることがはっきりと分かってくる。ここに書かれていることなら信じられる。あるいは、自分の全てをさらけ出している、この弟子の言うことなのだから信じられる。そういう気持ちにさせられる。どんなに疑いの思い、あるいは嫌悪感すら抱いて、読み始めたとしても、それら全てを打ち砕く力が聖書にはある。そして、それが聖書である。


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