さて、今回は実際に聖書の中身に触れていきたいと思う。私自身がどんなにくどい言い回しで語ろうとも、それはどこまで行っても、そこに書かれている以上のものには成り得ないからだ。今回は、聖書の中でも少々「異質な」箇所を取り上げてみたいと思う。私は最初この箇所を読んだ際、何故こんなものが聖書の中にあるのか?と疑問に思ったほどだ。それほど、他のものに比べると異質だ。ただし最後まで読むと、なるほどその言わんとしていることが理解できてくる。
その箇所とは「伝道者の書」あるいは「コヘレトの言葉」と言われている箇所だ。ちなみに、何故このような呼び方の違いがあるのか。それは、原語を翻訳する際の解釈の違いだ。聖書は今でも日々研究されており、新しい解釈を見出すと、それにしたがって呼び方が変わったりすることがある。つまり、「より適切な表現」に変えていこうとする動きが常にあるわけだ。それでは、その箇所を引用してみよう。
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エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。
空の空。すべては空。
日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡っては風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
すべてのことはものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい。」といわれるものがあっても、それは私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々に記憶されないであろう。
伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
曲がっているものを、まっすぐにはできない。
なくなっているものを、数えることはできない。
私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。
(略)
天の下には、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
働く者は労苦して何の益を得よう。私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
(略)
私は再び、日の下で行われるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげるものが権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。
私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。
(略)
良い名声は香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。
知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。これもまた、むなしい。
しいたげは知恵ある者を愚かにし、まいないは心を滅ぼす。事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。軽々しく心をいらだたせてはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。
(略)
光は快い。太陽を見ることは目のために良い。
人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。
だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。
若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。
しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」という年月が近づく前に。
(略)
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。
神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
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間を大分省略しているのでこの長さだが、実際はまだある。ただ、全て私がタイプ打ちしているので、これ以上やると手と目が疲れそうなので、主要な部分だけを抜き出してみた。(オイオイ・・
しかし、これだけを読んでも、全体の雰囲気はつかんで頂けたと思う。むなしい、むなしい・・・、ただその連続だ。辛うじて最後の最後で「神」と出てくるので良いのだが、これが何もなかったら、ただ単にこの世界を否定しただけで終わってしまう。だがよく考えてみればこの王の言っていることは貴重で、我々のように平々凡々と生きている人間には理解し難い境地なのだ。この王は、あらゆる物を手に入れ、あらゆる欲求を満たし、あらゆる知識を得た。そう、その「王」という最高の地位すら手に入れているわけだ。その王が「むなしい・・・」というのだから、説得力がある。
我々は大抵「金持ち」になりたい、と思うものだ。誰も好き好んで「貧しく」なりたい、とは思わんだろう。でもこの王は、金を持っていてもむなしいと言う。じゃあ、金を追い求めている我々は一体何なんだ?答えは単純明快、やはり「むなしい」結果が待っているだけなのだろう。先に結果が示されるとは、何と有難いことか。我々はそれに従えば良いのだ。結果を知りながら、そこに向かって突っ走るのだとしたら、それは「愚か」というしかない。
しかし!我々は愚かな存在だ。だから、分かっちゃいるけどやめられない。金、酒、薬、セックス等々、そういうものに嫌という程振り回されるのが人間だ。分かっていてやめられるのであれば苦労はしない。しかし、誰もやめられないのだ。そんな自分が嫌になり、全てを終わらせたくなる。ふと気づくと、手にナイフを握り締め手首に当てていたなどということも少なくないのだ。
では、別の視点から見てみよう。例えば、今我々が幸せいっぱいであると仮定しよう。
素敵な伴侶にめぐりあえた。超イケてる相手と付き合っている。可愛い子供が産まれた。近いうちに結婚する予定である。臨時収入が入って、懐がリッチだ。念願の高級車を手に入れた。マイホームを購入した。一流大学に合格した。大手会社に就職した。誰からも尊敬される地位や名声を勝ち取った・・・。挙げていったらきりがない。確かに「今は」幸せかもしれない。だが、明日までそれが続くという保障は何処にもないのだ。あらゆるものに幸せを見出す、これもまた人間の良いところでもあるのだが。
ここで、先ほど「伝道者の書」で割愛した箇所に立ち戻ってみよう。
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私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見出すこともまた神の賜物(たまもの)であることを。
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確かにその通りだと思う。しかし、私はこの筆者がある種の「皮肉」を込めてこの文を書いたのではないかとも思う。つまり、我々人間は、本当に大切なものを何一つわかっちゃいないのだ、という事を言うために。私が上に挙げた例の中で、どれか一つだけ大切だと思うものを挙げなさい、と言われたら何を挙げるだろうか。
地位・名声か、子供か、はたまた高級車か?しかしよく考えてみて頂きたい。我々が手にしている物で失わないものは何一つ無いことを。大事に大事に育て、目に入れても痛くないほどの我が子でさえ、突然亡くすこともあるのだ。それを苦に後を追う親もあるだろう。しかしその「痛み」の連鎖は止まることを知らない。その親族もまた、その痛みを背負って生きていかなければならないのだ。人間は一人では決して生きられない。その苦しい状況で支えあうのも、また人間なのだから。生きることを決意した親は、その後如何にして生きていけばよいというのか。
親族を亡くされ、悲しみにくれる方々も教会へ来る。聖書を読み、祈り、まわりの人間に支えられ、その人は自分を取り戻していく。前回でも取り上げた「奇跡」だが、これもまたそれと言えるのではないだろうか。光を失ったものが、闇の中に再びそれを見出し、新しい自分に変えられていく。教会には、そのような「新しい人々」が沢山いる。神は、無いようであって在る方であり、闇の中に光を作り出すお方なのだ。
「洗礼を受ける」とは、「新しく生まれ変わる」ということ。つまり、自分を罪人であると認め、その自分が一度死に再び生まれる、という象徴的な意味が込められているのだ。正に、あのイエスご自身が手本を示され、同じようにしなさいと言われた。イエス自身も洗礼を受けた。この事実は後々、大きな意味を持ってくることになる。
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草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
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これこそが、我々が決して失うことのないもの。真実なるものである。しかし、未だ判然としないものがある。そう、その「罪」とは一体何だ?という問題だ。「俺は盗みなど一度もしたことがない。警察にお世話になったこともない。だのに、何故俺が罪人なんだ?」そう考えるのが普通だ。聖書の言う「罪」には、もともと「的外れ」という意味が含まれている。つまり神に目を向けないこと、それもまた罪である。
「氷点」「塩狩峠」で有名なクリスチャン作家、三浦綾子さんをご存知だろうか。ご存知ない方がおられたら、是非とも本屋に足を運んで三浦さんの「道ありき」シリーズを読んで頂きたい。大のキリスト教嫌いの彼女が、いかにして改心していったのかが実に分かりやすく書かれている。是非だまされたと思って読んで頂きたい。シリーズといっても、わずか文庫本3冊、金額にして2千円あれば十分お釣りが返ってくる。
有名な作家だから、大抵の本屋には置いてあるだろう。なければ取り寄せれば良い。少々強引な話だが、それほどのものなのだ。
その中で、三浦綾子さんは罪についてこう語っている。
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わたしは、「罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪なのだ」と知った。
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自分は全く穢れ無き善人である、と堂々と公言できる方がおられたら是非お目にかかりたい。そのような方は、よほどの自信家か、自分というものをよく理解しておられない方である。自分が、「善人」であるなどということとは、如何にかけ離れた存在であるか、他ならぬその自分がよく知っているではないか。
人の失敗を見て、心の中で腹を抱えて笑う。
人の成功を見て、面白くないと憤慨する。
一人の人間の死を悼む我々が、戦場での大量の死体には何も感じない。
自らの子供を、泣き止まなかったからと殴り殺す。
金が欲しいからと、保険金をかけて家族を殺す。
誰も見ていなかったからと、店のものをポケットにしまいこむ。
肩が触れたと口論になり、身元が分からなくなるほどに殴り殺す。
人の悪口を、嬉々として言い合う。
これは決して、極悪人だけの問題ではない。全て「我々人間に」関わっている問題なのだ。たまたまそれが自分ではなくて、他人であっただけの話だ。持っている素質が、たまたま表面化しなかっただけの話だ。
では、そんなどす黒い罪を背負った我々はどうやって生きていけばよいのか。そこから開放される道はあるのか。それを背負い続けたまま、更に地獄にでも行くのか。神はそんな我々を見て、何故放っておかれる。もし神がいるのなら、そんな苦しみは何一つ消え去るのではないか。神がいるのなら、なぜ世界には未だ争いが絶えないのだ。神がいるのなら、なぜ我々は苦しみ続けねばならぬのか。神がいるのなら・・。
さて、今回はここまでとしたい。次回はこの続きから始め、更に神と人との関係について触れていきたい。
引用聖書:「新改訳」聖書(日本聖書刊行会)
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