ホーム > 随筆 > イエスの十字架



イエスの十字架

前回は、父なる神の愛についてお話した。とてもあれだけの分量で、それを語るのは無理なのだけれども、おおよその事はお話できたのではないかと思う。そこで今回は、子なるイエスについて触れていく。特に、「十字架」にまつわるストーリーを展開したい。その中で十字架の意味、イエスの苦しみ、またその弟子たちについても触れていく。前回までのシリーズで、イエスが我々の罪の故に死なれた、という事をお話しした。しかし、何故それが他の誰かではなく「イエス」だったのか、という事についてはまだきちんとお話出来ていないと思う。

まずはそこから始めよう。みなさんもクリスマス等で、少しは聞いた事があるだろうと思うが、イエスは処女マリアから産まれた。この「処女」というのがポイントで、人間の男女の子供ではないのだ。マリアは聖霊によって身ごもったと聖書にある。聖霊とは、これまた分かりにくい用語なのだが「神の愛」だと理解して頂いて構わないだろうと思う。マリアは男性によってではなく、神の愛によって身ごもった。ということは、それによって産まれたイエスは人間の子であって、同時に神の子でもある。その両面を持ち合わせた不思議な存在が、イエス・キリストなのである。この「キリスト」とは「救い主」、厳密に言うならば「油を注がれた者」という意味である。キリスト教では、このイエスこそが我々の「キリスト」だと信じているのだ。

さてそのイエス、こともあろうに自らの弟子によって迫害者たちの手に渡される。その名を、イスカリオテ・ユダと言う。ユダは迫害者にイエスを渡す事を約束し、銀貨三十枚を手にする。その時から、イエスを引き渡す機会をねらっていたのである。そのようにしてイエスはユダによって裏切られ、迫害者たちに捕らえられた。しかし、イエスは自らが十字架に付けられて死ぬ事を既に知っていた。つまり、父なる神によって既に知らされていたのである。そしてその「意味」をも。

「神の子」なのだから、十字架に付けられようが何をされようが痛くもかゆくもないのだろう、と思われるかもしれない。ところが、我々の罪を全て引き受けるわけだから、そんなことでは矛盾することになる。不死身のスーパースターが「私が身代わりになる!」、と言ったところでどんな説得力があると言うのか。前回、イエスを十字架に付けることが、父なる神にとっていかに苦しいことかを述べた。それは同時に、イエスにも言えることなのだ。そう、イエスも大変苦しんだのである。自らが十字架にかかって死に、それにどのような意味があるのかを知らされていたイエスだが、それでも尚聖書には次のようなイエスの言葉が書き記されている。

------------
そのとき、イエスは彼らに(弟子達に)言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯(さかずき)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
------------

これがどういう意味かお分かりだろうか。イエスは、出来ることならこの苦難から逃れたいと言っているのである。神の子であると同時に、人間の子でもあるイエスは、人間の苦しみ、痛み、恐れ、それら全てを持ち合わせた存在だったのである。だからこそイエスは、人間として我々に共感し涙を流すことができるのだ。何一つ「痛み」を感じないスーパースターが「苦難から逃れたい!」などと言うだろうか?イエスは上記のような祈りをしたすぐ後に、次のような祈りを続ける。

------------
「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとうりをなさってください。」
------------

つまり、私の希望はこうである、しかし、最終的にお決めになるのはあなたです。私はどのようなご判断であれ、それに従う用意があります、という祈りである。この時既に、イエスは自らの運命を受け入れていた。この後すぐ、イエスは捕らえられることになる。さて、イエスを売ったユダのその後だが、彼は迫害者たちのところに戻って、銀貨三十枚を返している。そしてこう言った。

------------
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」
------------

だが迫害者たちは、その懺悔の言葉に対して、こう言い放つ。

------------
「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」
------------

この後ユダは外に出ていって、自ら命を絶った・・。ここで重要なのは、ユダは単なる悪者ではなく、他ならぬ「我々の代表である」ということだ。つまり、イエスが我々人間全ての罪を背負って死んだ以上、我々がイエスを十字架につけたのである。さんざん苦しんだ末、イエスは十字架上でこう叫んで息を引き取った。

------------
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
------------

みなさんはこの言葉に驚かれないだろうか?私は初めこの言葉を見たとき、我が目を疑った。果たして、これは神が語る言葉だろうか?神なら、なぜ苦しむのだろう・・・。しかし、先にも述べたようにイエスは人の子でもあった。だから、最後は人間としてとことん苦しみ抜き、ボロボロになって死んでいったのである。神はイエスの信仰心さえも奪い取ったのである。この十字架がどれほど苦しいものであるか、我々人間には到底理解できない。

当時、十字架刑は最も残酷で苦しい刑であった。その理由は、すぐに死ねないということ。自らの体重で、その手足には、とてつもない激痛が走るのである。この刑はそれほど残酷でむごいものなのである。しかし、それ以上に辛いことがあった。それは、神の怒りを自らが全て受ける、ということである。つまり、我々人間に向ける筈だった神の怒りをイエスが身代わりとなって全て引き受けたのである。これほど恐ろしいことがあるだろうか。神の怒りを全て我が身に受けるなど。そして身代わりなれるのは、何ひとつ罪を持たないイエスでなければならなかった。

なぜなら、「罪人」が死ぬのは当然だからだ。そして、全てを受け入れることのできる、神のひとり子でなければならなかった。途中で恐くなり、逃げ出してしまうような存在では、この世に使わした意味がないのである。こうしてイエスは「罪人のひとりとして数えられ」死んでいったのである。ところで生前イエスは、自らが死んでも三日の後に蘇るということを公言していた。そのことを思い出した迫害者たちは、総督ピラトに次のように申し出る。

------------
閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、「自分は三日の後によみがえる。」と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。

そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、「死人の中からよみがえった。」と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前のばあいより、もっとひどいことになります。
------------

こうしてイエスの墓の前に番兵を置き、尚かつ、大きな石で封印をしたのである。ところが三日経ったのち、大きな地震が起こり主の使いが天から下ってきた。番兵が恐ろしさのあまり震えながら中を覗くと、石はわきへころがしてあり、中はカラになっていた。そのことはすぐ数人の番兵によって、迫害者たちに報告された。ところで、これまで私が分かりやすいように「迫害者」と言ってきた者たちだが、正確に言うと「祭司長」や「長老」たちのことである。つまり、エルサレム神殿の宗教儀式をつかさどる聖職者たちや、イスラエル部族の中で高い地位を有し、それを取り仕切る者たちだったのである。

番兵から、事の次第を報告された彼らはすぐに協議を始めた。そして注目すべきは、番兵たちに「多額の金を与えて」こう言ったというのである。

------------
「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った」と言うのだ。

もし、このことが総督の耳にはいっても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。
------------

そこで、番兵たちは言われた通りに、そのことを触れ回った。ちなみにユダヤ教徒たちは、今でもいつか人類の救い主が現れるはずだとキリスト(救い主)を待ち続けているのだ。つまり、彼らはイエスをキリストだとは信じていない。それが、キリスト教とユダヤ教の大きな違い。よって、彼らは旧約聖書のみを使用する。

さて、このような祭司長たちの言動からも、イエスの復活が事実であったことが伺える。彼らは番兵たちに賄賂を渡してまで、事実を言いふらされることを恐れたのであった。ところで、イエスが墓からいなくなったその日、二人の女がイエスの体に香油を塗るために墓を訪れた。そして、主の使いによってイエスが復活したことが告げられたのであった。それを聞いた彼女たちは、イエスの弟子たちにこのことを告げた。

ところが聖書にはこうある。

------------
使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
------------

この一文を見て、聖書はなんて正直なのだ!と驚かれないだろうか。生前イエス自身から、自らの復活についてさんざん聞かされていた弟子たちでさえ、そんなことはある筈がない、何をふざけているのだ、と疑ったと言うのである。

イエスが弟子たちの前に姿を現したとき、初め彼らはそれがイエスだと気づかなかったと聖書にある。それほど、絶望のあまりイエスの復活を信じていなかったのである。そんな彼らも、イエスの手や足、また槍で突き刺された脇腹の傷を見て、ようやくイエス自身であることに気がついた。そして、さんざんイエスを疑い、裏切り続けてきた弟子たちも、その「復活」をきっかけに命がけで伝道するようになる。最終的には、ほとんどの弟子たちが殉教していった。その弟子達の伝道によって、キリストの教えが世界に述べ伝えられ、我々日本人もその真実を知ることとなったのである。

さて、暫くこのシリーズを続けてきたが、ここまでの回でキリスト教の大事な考えは大体述べられたと思う。しかし、聖書とは一生かかっても読み尽くせないほどに、深い読み物である。

是非、ご自分の手元に一冊置いて読んでみて頂きたい。それから、お近くの教会へも是非足を運んでみて頂きたい。

聖書は、一人で読んでいたのでは理解できない部分も沢山ある。教会で牧師の説教を聞き、教会員たちと交わる中で理解を深めていくものなのだ。

それから最後にもう一度念を押しておくが、「教会」とあっても「キリスト教会」とあってもキリスト教ではない場合がある!これは、本当に気を付けて頂きたい。簡単に確かめる方法がある。そのことについて、他の回でも取り上げた三浦綾子さんが著書の中で次のように言っている。

------------
「キリストを信じたいのですが、イエスは本当にキリストでしょうか、救い主なのでしょうか」と尋ね、そうだと答えたら、そこは明らかにキリスト教会である。

集会の日時なども、こちらから聞くまでもなく教えてくれるはずである。もし、イエスは別にキリストでも、救い主でもない、という答えが返ってきたら、それはキリスト教とは言えないので、わたしはそこをお勧めするわけにはいかない。

そのほか、「私がキリストである」とか「この人がキリストの生まれ変わりだ」とか、イエス以外の者をキリストという教会があるとしたら、それは決してキリスト教会ではない。たとえそこにキリスト教会という看板がかかっていても、それは決してキリスト教会ではないと断言してはばからない。
------------

引用聖書:「新改訳」聖書(日本聖書刊行会)


<<前に戻る