私が洗礼を受けたのは、1997年だった。それからもう、何年も時が過ぎたことなる。その間に、教会では何人もの人たちが同じように洗礼を受けた。洗礼を受ける際には、証(あかし)と言われるものをする。証とは、自分がどのような経緯を経て洗礼を受けるに至ったか、ということを教会員の前で話すことである。証が終わると、その人は牧師に祈られその身を水に沈める。私の宗派では、全身を水に沈めるという形で洗礼を行う。宗派によってその形は様々。頭に水滴をたらす、というものもある。
1997年当時の私も、証をし洗礼を受けた。その当時は、何か自分の意思のみによって洗礼を決意したかのように考えていた。ところが長い間信仰生活を送っていると、それが単なる思い込みに過ぎないことが分かるようになる。人間はしばしば、神を信じることができなくなるのだ。苦しい状況に陥った時、事が思うように進まなくなった時など。
我々が神を信じられるのは、神が信じられるようにして下さっているからなのだ。決して我々の意思だけではない。いや、そもそも我々の意思なんて、どれくらいのものなのだろう。どのような状況にあっても神を信じ抜くことができるほど、我々人間は強くない。むしろ、どうしようもないくらいに、自分自身でも「俺は救いようがないやつだ」と思えるほどにちっぽけな存在だ。時々私はこんな風に思うことがある。私は何で神を信じているのだろう。周囲には神と呼ばれるものが沢山あるではないか。なのに何で私は、イエス・キリストの父なる神を信じているのだろう、と。それは本当に不思議でならない。そう考えていくうちに、自分が神によって招かれた存在であるということが分かってくる。
そう、「私が」神に近づいて行ったのではなく、「神が」私に歩み寄って下さったのである。そして、罪深くどうしようもない私でも、神を信じることができるように「信仰」を与えて下さったのだ。私はその信仰によって、今も生かされている。この信仰を与えられていなかったら、おそらく私は全く違う人生を歩んでいたことだろう。高校の時分、進路に悩んでいた私を救って下さったのが神である。見えなかったものが見えるようになり、全てが美しいと思えるようになり、そしてその喜びをこうして人に伝えるまでになったのは、全て、光を下さった神によるもの。讃美歌を歌うことすら拒んでいた私が、それを作るようにまでなったのは、神から頂いた喜びをどうしても表現したかったから。
誤解を恐れずに言うならば、我々クリスチャンは神を「信じている」のではない、数えきれないほどの救いを経験して、「信じざるを得ない」のである。その事実に直面し、もう逃げられないと観念した人間が洗礼を受けるのだ。人によって色々な言い方ができるだろう、しかし少なくとも私は「観念した人間」だった。今こうしていられるのは、全て神の恵みによるものだ。
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