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生きているのか 生かされているのか

私は日常生活の中で、生きることや命という意味での「生」を感じることがよくある。例えば、事故でケガをした時などは特にそうだ。それに遭った瞬間は、もう頭が真っ白で、いわば「全身麻酔」にでもかかったかのように、意外にもケロッとしている。

実際私がそうだった。

「ああ、死というものは、こうやって突然訪れるものなのか。」と実感した後で、急に怖くなるという体験をした。つい最近も、「生」を考える機会があった。私は、これを書いている1週間ほど後に、ちょっとした手術を予定している。まあ、脂肪腫を切除するという程度の軽いものなのだが(最近の手術は、自分の好きな音楽をかけながらやるそうで、現在その選曲に迷っている。音楽好きはこういう時が辛い・・・。)、原因が分かるまでは、何か悪性の腫瘍ではないか、などと心配したものだ。

自分でも不思議なのだが、私はそういう時に、意外にもあっさりと「覚悟」を決めてしまう。すると、突然「生」の重みを感じ始めるのだ。そして「こうしてはおれん、今私がすべきことは何か」と考え始める。おのずと、「生かされている」ということを意識せずにはいられなくなるのだ。「私はなぜ生かされているのか」と考える時、周囲の雑音は一瞬にして消え去る。全神経を研ぎ澄まし、「声」を聴こうとする。そこには既に「祈り」が生まれているのだ。本来祈りとは、そういうものなのかもしれない。

「祈る」というよりは、完了形的な「祈ってしまっている」というものに近いのではないか。あるいは、本当に苦しい時の「うめき」。これも「祈り」の極限の状態だと思う。苦しい時というのは、聖書を読むことはもちろん、「祈る」ということも難しい。つまり自分の中から、言葉を発すること自体が苦しいのだ。こういう時に先の「うめき」が生まれる。「うめき」とは、苦しさのあまり声を出すことを言うそうだが、やはり「うめき」は「祈り」とよく似ているように思う。

「生」を考えるということは、同時に「死」を考えることでもある。人間はいつか死ぬわけだが、それがいつなのかは分からない。この世の終わりについて、聖書の中で「いつも目を覚ましていなさい」とある通り、同じことは「死」に関しても言えると思う。いつ死ぬか分からないのなら、尚更のこと毎日をしっかり生きなければならない(と頭では分かっている)。

確か前にも、生や死について書いたことがあった。「生」を全うするからこそ、「死」に意味があるのではないか、という内容であったと思う。自分でも、なぜこのようなことばかりを考えているのか分からない。でも、普段何気なく生活している中で、忘れ去られていることが実に多いのではないか。自分は「生きているのだ(死ぬこともできるけど)」などという傲慢な姿勢を示すことが実に多いのではないか。だからこそ「なぜ生かされているのか」という問いは、とても大切だと思う。





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