「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7章7節〜8節)
今回も前回に引き続き、「祈り」そして「祈る」ということについて少し考えてみたいと思います。キリスト教会では毎週日曜日に行われる「礼拝」とは別に、「祈祷会」などと呼ばれる、専ら祈ることに重きを置いた集いがあります。キリスト教会において、それほど大切にされてきている「祈り」とはどのようなものなのでしょうか。また、どのようなものであるべきなのでしょうか。
「祈り」を考える時、私がまず思い浮かべるのは、ある友人とのメールでのやり取りです。学生時代に知り合ったその友人とのやり取りは、もう4、5年になりますでしょうか。週に1度程度のやり取りが今でも続いています。内容は専ら、将来に対する期待と不安に関するものです。その友人は自分の親との関係に悩み、また学生を終えた今でも未だ職に付くことができないでいます。自らを取り巻く環境的な問題と、個人的な問題を抱えながら、まだクリスチャンではありませんが、キリスト教に1つの光を見出そうと必死にもがいています。その友人とのやり取りは、決して平坦なものではありませんでした。その友人は、聖書を読んでも祈っても、状況が改善されないという苛立ちから、キリスト教に対する不信感を年々募らせていったからです。
この事は、その頃の私自身にも変化をもたらしました。幼い頃から当たり前のようにしてきた「祈り」とは、本当のところどのようなものなのだろうか、という思いが強くなってきたのです。「いつも幼子のようでありなさい」という聖書の言葉は名言で、人は成長するにつれて「疑う」ことを覚えていきます。疑いは不信仰を生み出す、危険な種でもあるのです。
ちょうどその時期、私にはもう1つの印象深い出来事がありました。学生生活を終え、あるミッション系の学校への就職を希望し面接にのぞんだ時のことです。ある面接官からこんな質問がなされました。「あなたは自分の祈りが聞かれたと言われましたが、神にあなたの祈りが聞かれたと、どのようにして分かるのですか?」という問い掛けです。これは神学的なかなり深い問い掛けであったのだとは思いますが、私はその質問の真意を測りかね、内心不快な気持ちになりながら「私の祈った通りになったからです」と苦し紛れに答えたことを思い出します。しかし一見意地悪く思えるこのような質問に対して、自分なりの答えを持つことは、この先様々な状況に直面していく我々クリスチャンにとってとても大切なことだと思うのです。
祈りに、聞かれない祈りは無いと私は信じます。神は私たちの祈りを聞き、大いなる愛をもって応えて下さる、あるいは時に一方的な愛、無償の愛(アガペー)によって応えて下さると信じているからです。マタイ21章22節には「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とあります。文字通り、求めれば得られるのです。しかし「得られる」とは、「自分の思い通りになる」こととは違います。神が私たちにとって最善だと思われることを、恵みとして与えられるのです。
では「祈り」とは、どのようになされるべきでしょうか。かの有名なマザー・テレサは次のように言います。「祈りの第一は沈黙。本当に祈ることを望むならば、まず、聴くことを学ばねばなりません。神は、沈黙のうちにある心に語られるからです。この沈黙を理解し、神の声を聞くためには、澄みきった心が必要です。澄みきった心は、神を見つめ、神の声を聞き、それに耳を傾けます。その時初めて、わたしたちは、心の底から神に語りかけることができるのです。耳を傾けることなくして、心の沈黙のうちに神とつながることなくして、わたしたちは神に語りかけることができないのです。祈りは、苦痛をもたらすためにあるのではありません。また、わたしたちを不安にさせたり、悩ませたりするためにあるのでもありません。祈りとは何かを待ち望むことであり、わたしたちのからだ、魂、思い、心を包みこんでいるわたしの父に語りかけ、イエスに語りかけることです」。(「祈り」マザー・テレサ著 サンパウロ)
また今から700年以上前に生きた、ドイツのマイスター・エックハルトというキリスト者は、自らの説教集の中で我々のあるべき心の状態についてこう述べています。「神はどんな心の内でも神の意志のままに働くことができるわけではない。神は全能であるにしても、神が備えを見出すか、あるいは神自身が備えを設けるところでしか神は働くことができないからである。・・・・・・神は、見つけた備えや受容性に応じて働くのである。心の内にあれとかこれといったようなものがある場合、このあれとかこれというものの内には、神が最高の状態で働くことができなくなるようなあるものが存在するのである。それゆえ心が最も高きものに対して備えを持とうとするならば、心はひとつの純粋な無の上に立たなければならない。その内にこそ、ありうるかぎりの最大の可能性がひそむのである。・・・・・・無の内にこそ最大の受容性があるからである」。(「エックハルト説教集」エックハルト著 岩波文庫)
今ご紹介した二人の言葉に共通することは、自分の願いよりも先に、神の願いを聞く、そして知るところにあります。またその為に、神に対して自らを開放する必要があるということです。開放とは、神に全てを委ねること、つまり祈ることによって、またその祈りが神に聞かれていると信じることによって、そしてその聞かれた祈りが最善の形であらわされると希望を持つことではないでしょうか。
冒頭で述べた「疑い」から自由になることは、我々人間にとって決して容易なことではありません。「疑いというのは、単に信仰のもう1つの側面なのです」とは、マザー・テレサとも親交の深かったブラザー・ロジェの言葉です。疑いを持つことがあっても、それは信仰がないということではないと言います。そしてこう続けます。『あなたはこう言うかもしれません。「わたしの中の炎は消えようとしている」と。しかし、その炎を灯したのは、あなたではなかったのです。あなたの信仰が神を創造するのではありません。あなたの疑いが神を無へと消し去ることは、けっしてないのです』。(「祈り」ブラザー・ロジェ著 サンパウロ)
このような言葉を大切に心に抱きながら、私たちはもう一度冒頭の聖書箇所に目を向けたいと思います。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。
引用:「新共同訳」聖書(日本聖書協会)
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