人生に様々な選択肢がある中で、クリスチャンになることを選ぶ人間がいる。私もその中の一人であるわけだが、如何にしてその道を選んでいったのか、ということに興味をお持ちの方もおられるだろう。ここでは、そのことを取り上げてみたいと思う。
キリスト教と聞いてまず何を思い浮かべられるだろうか。「ザビエル!」そう考えた方は、なかなか歴史を勉強しておられる。「十字軍」、「免罪符」、「愛の宗教」、「イエス・キリスト」、「モーセ」など色々あるだろう。ここでまず、確認しておきたいことがある。キリスト教とは、統一教会、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教などとは関係がないということ。
見分け方としては、イエス・キリストを神の一人子(ひとりご)であり、我々の救い主(すくいぬし)であり、そしてイエスの十字架によって我々の罪が許されたのだ、と信じる集団がいたら、それはキリスト教であると言って良いだろう。「いや、イエスは預言者の一人にすぎない」などと発言をする集団がいたら、キリスト教とは違うということを覚えておいて頂きたい。私はここで、他の宗教の批判をする気は毛頭無い。キリスト教というものを示す上で、他の宗教を例に挙げることもあるかもしれぬが、それは決してその宗教の否定ではないという事を十分ご理解頂きたい。
さて、私は、クリスチャンの両親のもとに生まれた人間である。いわゆる、「クリスチャンホーム」に育った人間だ。毎週日曜日には教会へ連れていかれる。それが日常であった。しかし、クリスチャンになる為に「洗礼」を受けたのは18歳の時である。両親がクリスチャンでありながら、その歳になるまでクリスチャンにはならなかったわけだ。何故か。それは、キリスト教というものを本当の意味で理解出来なかった、あるいは、理解しようとしていなかったからだと思う。
18歳の時に、如何にしてキリストを受け入れたのか。それまでの私は「理屈」で物事を理解しようとしていたように思う。しかしそれを止め、「現前たる事実に目を向ける」という姿勢に切り替えた時、案外素直に神を受け入れることが出来た。どういうことか。その「事実」とは何か?という話だが、一度機会があったらキリスト教会へ足を運んでみると良い。教会へ足を踏み入れてまず驚くのは、信者たちの生き生きとした笑顔だ。
「この人たちは一体何故、これ程までに喜んでいるのか?」と、一瞬戸惑われるかもしれない。それ程までに、「嬉しそう」というのが私の第一印象でもあった。これは決して悪い事ではない筈なのだが、ある意味では気持ち悪い(苦笑)。そりゃそうだろう、こちらはその理由も分からないのだから、薄気味悪いのは当然だ。だが彼らとしては、それを抑えろと言われる方が無理というものだ。この事こそが、私をクリスチャンにした最大の事実であると言って良いだろう。
自分の目の前に、キリスト教を信仰し喜びに満ち溢れている人間がいる。神という存在があるのかどうかよく分からんが、それを信じ、更に、その事を是非とも他の人々に伝えたい!と元気一杯に生きている人間がいる。果たして、神がいる、イエスこそ救い主であるという思い込みだけで、ここまで喜ぶことが出来るだろうか・・・。信じるだけで救われるなど、そんなに安っぽい宗教などあるだろうか・・・。我々は罪人だと言うが、その罪とは一体なんだ?
私は事実を目の前にし、そのような問いを延々と繰り返した。そしてそのうち、そのように飽くまでも疑い続ける自分が悲しくなってきた。否、もっと言えば、疑う必要すら無くなっていたにも関わらず、必死で疑い続けよう、否定し続けようと躍起になっている自分に悲しくなったのだ。
その思いから開放された私は、まもなく洗礼を受けた。
「洗礼」を受けてクリスチャンになれば、あらゆる悩みから開放される?
NO !!
クリスチャンになれば、笑ってばかりいて怒ることなど全く無くなる?
NO !!
クリスチャンになれば、善人になって罪を犯さなくなる?
NO !!
クリスチャンになれば、何でも受け入れて許すことができるようになる?
NO !!
クリスチャンになれば、嫌いな人間が存在しなくなる?
NO !!
クリスチャンになれば、戦争などやらなくなる?
NO !!
クリスチャンは、そうでない人たちと比べて偉い??
NO !!
クリスチャンになれば長生きする?
NO !!
しかしそれでもなお、我々クリスチャンはキリスト教を喜びを持って信仰しているのだ。
「そこまで自虐的事実を並べ立て、なおも信仰し続けると言うのか!?」。「そこまでおまえ達を突き動かしているものは何か!?」。そう問いたくなるのは当然だろう。その答えは聖書にあり、私がこれから書き綴っていく文にあり、私が作り出していく音楽にある。
さて、このシリーズこのまま暫く続くだろうと思う。興味がおありの方も、そうでない方もお付き合い頂ければ幸いである。
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