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聖書

はじめに


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はじめに

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引用聖書:「口語訳」聖書(日本聖書協会)

誰かとけんかをした時

怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。

互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。(エペソ人への手紙4:26、32)
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互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(コロサイ人への手紙3:13)


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いじめにあった時

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)


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だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ人への手紙12:17〜21)


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死ぬことがこわくなった時

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。(ヨハネによる福音書11:25、26)


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悲しい時

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。(マタイによる福音書5:4)


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とても心配なことがある時

あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイによる福音書6:34)
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神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。(ペテロの第一の手紙5:7)


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死にたくなった時

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)

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あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(コリント人への第一の手紙10:13)
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<以下は、わたくしKeisicがそれぞれのテーマについて書いたものです。コンテンツ「随筆」にも同じものがあります。>

 

「生」について

私は日常生活の中で、生きることや命という意味での「生」を感じることがよくある。例えば、事故でケガをした時などは特にそうだ。それに遭った瞬間は、もう頭が真っ白で、いわば「全身麻酔」にでもかかったかのように、意外にもケロッとしている。

実際私がそうだった。

「ああ、死というものは、こうやって突然訪れるものなのか。」と実感した後で、急に怖くなるという体験をした。つい最近も、「生」を考える機会があった。私は、これを書いている1週間ほど後に、ちょっとした手術を予定している。まあ、脂肪腫を切除するという程度の軽いものなのだが(最近の手術は、自分の好きな音楽をかけながらやるそうで、現在その選曲に迷っている。音楽好きはこういう時が辛い・・・。)、原因が分かるまでは、何か悪性の腫瘍ではないか、などと心配したものだ。

自分でも不思議なのだが、私はそういう時に、意外にもあっさりと「覚悟」を決めてしまう。すると、突然「生」の重みを感じ始めるのだ。そして「こうしてはおれん、今私がすべきことは何か」と考え始める。おのずと、「生かされている」ということを意識せずにはいられなくなるのだ。「私はなぜ生かされているのか」と考える時、周囲の雑音は一瞬にして消え去る。全神経を研ぎ澄まし、「声」を聴こうとする。そこには既に「祈り」が生まれているのだ。本来祈りとは、そういうものなのかもしれない。

「祈る」というよりは、完了形的な「祈ってしまっている」というものに近いのではないか。あるいは、本当に苦しい時の「うめき」。これも「祈り」の極限の状態だと思う。苦しい時というのは、聖書を読むことはもちろん、「祈る」ということも難しい。つまり自分の中から、言葉を発すること自体が苦しいのだ。こういう時に先の「うめき」が生まれる。「うめき」とは、苦しさのあまり声を出すことを言うそうだが、やはり「うめき」は「祈り」とよく似ているように思う。

「生」を考えるということは、同時に「死」を考えることでもある。人間はいつか死ぬわけだが、それがいつなのかは分からない。この世の終わりについて、聖書の中で「いつも目を覚ましていなさい」とある通り、同じことは「死」に関しても言えると思う。いつ死ぬか分からないのなら、尚のこと毎日をしっかり生きなければならない(と頭では分かっている)。

確か前にも、生や死について書いたことがあった。「生」を全うするからこそ、「死」に意味があるのではないか、という内容であったと思う。自分でも、なぜこのようなことばかりを考えているのか分からない。でも、普段何気なく生活している中で、忘れ去られていることが実に多いのではないか。自分は「生きているのだ(死ぬこともできるけど)」などという傲慢な姿勢を示すことが実に多いのではないか。だからこそ「なぜ生かされているのか」という問いは、とても大切だと思う。

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「祈り」とは何か?

一般に、祈りとはどういう意味で用いられているのであろうか。

広辞苑を引いてみよう。(1)神や仏の名を呼び、幸いを請い願う。祈願する。(2)心から望む。希望する。特に何かを信仰している人でない限り、通常は後者の意味で用いられる。例えば「健康の回復をお祈り致します」と。つまり「あなたが健康になるようにと、希望しております」ということ。誰かに希望されることで、自分の病気が回復する、という臨床心理学的な議論もあろうが、実際、それを言われる側としては、「ああ、この方は、私のことを思って下さっているのだなあ」で終わってしまうのではないか。

つまり、言われる本人もそのことで病気が良くなるとは思っていないのではないか。尤も、愛する人がいたり、家族がいつも励ましてくれることによって、当人が生きる力を得て、回復に向かうということはもちろんあり得ることだし、それを否定しているわけではない。むしろ、言葉にはそのような力が備わっているのだ。

私が言いたいのは、通常、いわば極まり文句のようにして言われるに過ぎないのではないか、ということだ。そのような中で、我々クリスチャンもまた「祈る」ということをする。(実は、我々クリスチャンの間でも、しばしば極まり文句のようにして使われる、ということが起こる!だから、いつも注意していなければならない)自分一人が希望するということではなく、イエス・キリストの父なる神に祈るのである。私は一時期、この「祈り」について色々考えたことがあった。今手元に、以前、私が祈りについて書いたものがあるので一部引用してみよう。

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ここ最近、私の中でのテーマはいつも「祈りとは何か?」というものであった。考えて、考えて、神学書までも引っ張り出して、その意味を知ろうとしていた。・・・・・・私が出した結論は、祈りとは神とのコミュニケーションであるということ。一時は、そんなに単純なものではないのではないか?という疑問を持ちつづけていた。しかし、やはり祈りとは「コミュニケーション」である。それ以外にない。我々は神に語りかけ、神はそれにお応えになる。そのやり取りが祈りだ。そして、事が起こる前から信じ、祈り、感謝する。神は、それこそが「信仰」であるということまでも教えて下さった。感謝である。
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ちょうどこの文章を書いた少し前の時期に、牧師とも祈りについてメールで何度かやり取りをしたことがある。私個人宛のものなので、引用しようか少々考えたが、特にプライベートに関わることが書いてあるわけでもなく、皆様が読まれても有益であると判断したので、そのやり取りの一部を引用してみたいと思う。

「>」印が私の発言。その他が牧師の発言である。

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> 先生はどうですか?祈っている時は、どんな感じですか?
> 神を目の前に感じますか?それとも、心の中に「思い」として感じますか?

感覚や感情に、過度に依存した信仰の期待は、注意を要する場合があります。それは、あくまでも自分という人間の感覚でしかないのですから。もちろん、人間の感覚を否定する事ではなく、それが「神」の働きに等しいかのように勘違いしない事という意味です。このへんが、仏教との関連でもおもしろい「神秘主義」のテーマかもしれません。

・・・・・・キリスト教が大切にしてきたことは、自分の直感や感情感覚を過信せずに、「聖書を読む中で神の啓示を知る」(イエス・キリストとして人となられた神を理解する)という面です。その面では、きわめて論理的・理性的宗教なのです。(むろん、そうでない立場の者もでて、極端なのは異端として退けられてきた歴史があります。)

祈りや黙想は、先ずそのために必要とされるのです。決してそれとはなれて(聖書と別に)「神の啓示を受けるために山にこもって…」というのは、要注意でしょう。

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>「感覚や感情に、過度に依存した信仰の期待は、注意を要する場合があります」
>という言葉によって、最近祈ることがとても楽になりました。
>やはりこれまでは、必死になって何かを「感じようと」していたようです。

信仰は、われわれの「感」とは違いますからね。

>何かを感じようと躍起になっているうちは、何も感じることが出来ず、
>何も感じようとしなくなったときに初めて、何かを感じることが出来るのかもしれません。

すでに、相即の概念に接近していておもしろい!

>「祈り」とは、「神とのコミュニケーション」というよりは、
>「神と向き合うこと」とした方がより真実に近い気がしています。

そういう言い方もできると思う。ぼくは、あえてその上で、「コミュニケーション」を使っていいと思う。(仏教では、「人格神」として神なるものを対象化するところに、キリスト教へのつまずきを感じるとよく言われますが。)神秘主義は、限りなく「神」と「われ」との合一に引き付けるけれども、そこに面白さと危うさが並存しているのでしょう。(個の中で、実存論的に抽象化する危険!)
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上での議論は、「祈るという行為」に重きを置いたものなので、クリスチャンでない方には、少々解しがたい内容かもしれない。しかし、実に示唆に富んだ内容なので、知っておいても損は無いと思う。皆様には、ただ「祈りとは、神とのコミュニケーションである」ということだけ覚えておいて頂きたい。ところで、祈ることで何が起きるのか?この問いに対しては、「何でも起きる!」とだけ申し上げておこう。何故なら聖書には、あなたがたが信じて祈り求めるなら、何でも叶えられるとあるからだ。我々クリスチャンは、ただそれを信じている「だけ」ではない。実際にそのことを「体験」しているのだ。もちろん私も体験している。

むしろ、祈りとはクリスチャンにとって日常的なものであって、一日中、あらゆる場面で祈っているのだ。それは何も、手を組んで厳かに祈らなければならない、というものではなく、歩いていても、何をしながらでも可能なものであり、声に出さなくとも、心の中で祈ることも出来るのだ。「じゃあ、おまえが祈った結果、どんな凄い事が起きたのだ?」という問いに対しては、慎重に対応しなければならない。そもそも、そのような問いそのものが、既に祈りを否定するものであり、どのような事実を並べて説明しようとも、決して受け入れることは出来ないであろうからである。

また私自身、そのような事実を前面に出して、「どうだ、凄いだろ!だから、おまえも神を信じろ!」と言わんばかりの姿勢には、嫌悪感すら覚える。そこには既に、大切なものからかけ離れた、致命的な「ズレ」が生じているからだ。祈りの結果、何かが叶えられたり、奇跡的とも思えるような現象が起きたりするのは、神を信じる信仰から出る結果であって、その逆では決してない。すなわち、「何かが起きたから信じる」のではなく「信じるから何かが起きる」のである。無論、何かを起こすのは神である。打算的、御利益的な考えで臨むならば、神を信じる信仰すら生じないし、ましてや祈りが神に聞かれる筈もない。

ところで、その祈りを叶えるのは神であって、叶えるかどうかを判断するのも、また神である。つまり、我々の祈りが全て神の御心にかなっているかどうかは、分からないのである。すなわち、神が「叶えない方が良い」と判断した場合には、叶えられないのである。そのことを嘆いてはならない。なぜなら、神は我々に最善の道を与えているのであり、その時は受け入れがたい結果であっても、将来は必ずそのことを感謝する時が訪れるからである。それは、次のような聖書の言葉によって信じることが出来る。

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求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
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実は、祈りにはこれ以上無いというくらいの「ベストな祈り」というものが存在する。それこそが「主の祈り」である。これはイエス自身が、このように祈りなさいと言って人々に語った祈りである。その祈りとは次のような祈りである。

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「主の祈り」

天にましますわれらの父よ、

ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。

み国をきたらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧(かて)を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。

我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。

国とちからと栄えとは、限りなく

なんじのものなればなり。

アーメン
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皆様もこの祈りを、毎朝してみて頂きたい。いきなり目をつむって祈れ、と言われても覚えていないのだから難しいだろうと思う。覚えるまでは、目を開けて、読むという姿勢で祈られると良いだろう。「朝」というのには、ちょっとした訳があって、<我らの日用の糧を「今日も」与えたまえ>とあるので、やはり朝が良いだろう、ということである。

私は幼い頃、この祈りを夜にするのが習慣であったが、最近は、そのような理由もあるので朝にすることにしている。まあ、これは好みの問題であるので、ご自由にどうぞ。(^^; 別に、夜に今日と言っても、朝に今日といっても構わない。重要なのは、主の祈りそのものなのだから。

まずは一週間、騙されたと思って「主の祈り」を試してみて頂きたい。何かが変わってくる筈である。それが何であるのかは、ご自分で経験されるしかないと思う。それは人それぞれであると思うし、感じても説明できないことは世の中山ほどあるのだから、無理に言葉に置き換える必要もない。その何かを感じて頂ければ良いと思う。

何も変わらなければ、更に二週間続けてみて頂きたい。何かが変わってくる筈である。それでも何も変わらなければ、祈るのをパッタリ止めて、本屋へ足を運ぼう。そして聖書を買い、今度は聖書を一週間騙されたと思って読んでみて頂きたい。何かが変わってくる筈である。

何も変わらなければ、更に二週間続けて読んでみて頂きたい。何かが変わってくる筈である。それでも何にも変わらなければ、聖書を読むのもパッタリ止めて、近くのキリスト教会へ足を運ぼう。
今度は、牧師の説教を毎週聴くようにしてみよう。何かが変わってくる筈である。

それでも何も変わらない、とは言わずに、何かが変わるまで分かるまで教会へ通ってみよう。いつしか、全てを受け入れることの出来るクリスチャンになっていることと思う。そのことを、私はいつも祈らずにはいられないのである。

 

Keisicのキリスト教入門シリーズ

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病気で苦しい時

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイによる福音書11:28)
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「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(コリント人への第二の手紙12:9、10)


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誰かを好きになった時

あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。(テモテへの第二の手紙2:22)
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子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。(ヨハネの第一の手紙3:18)


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教会に行こうかどうか迷っている時

父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(ヨハネによる福音書6:37、14:6)

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その他、随筆「イエスの十字架」の後半部分でも、教会について触れています。併せてお読み下さい。

 

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もう少し詳しくキリスト教について知りたい方は、キリスト教入門も併せてお読み下さい。